空色ノート
人類が偽りの世界(マトリックス)から解放されるためにブログを綴っています。同じ目的意識を持った皆さま、どうぞご協力お願いいたします。

無条件に愛すれば、無条件に愛される

zeraniumのブログより


Q、 どのような理由から、2人の人がカップルになるのでしょうか?

   まず①愛から、②霊的な成長の必要性から、また③執着からだ。
   最初に挙げた2つの場合は、転生する以前に、霊的な判断に従って取り決められる。3つ目のものは転生後に本人が選んだものであるが、多くの場合当然、それは霊的なものではなく「現世的な」理由によって決められており、すでに述べたように転生以前に交わされた魂同士の約束が、ここで何度も変更されることになる。

   最初の①のものは、愛情による結びつきと、魂同士の類似性によるものだ。
   ②の霊的な成長のための結びつきは、互いに学びあう必要性によるものだが、通常、互いの間に前世からの課題が残されていたり、特定の欠点や美徳に互いに取り組むことで、霊的に向上する可能性のある魂の間に見られる。③の執着による場合は、外面的な肉体や性的魅力であったり、互いの知的あるいは物質的な目標が似ていたり、物質的な必要性と愛情の欲求、それに一緒になる者同士の便宜的利益や義務などによって結びつく。




Q、 どこへ転生するかが霊界で決められるのは理解できますが、2人がカップルになるというような決定は、いつも現世で決められるように思うのですが・・・。

   確かに、最終決定は転生して後に行なわれる。
   しかし何十億という人々の中から見ず知らずの2人が出会うというのはどれほどの確率だろうか? その出会いは偶然なのだろうか? つまり、特定の2人が出会うための環境が整い、知り合う機会が成立するためには無数の状況が重なる必要があることがわかるだろう。そしてこれは、実は霊界からの介入で調整されていることなのだ。また自分の人生において、ある人が自分の重要な人になると予感できるのは、前世の記憶が呼び起こす感覚によるものである。

   我々は、魂の双子・ツインソウルを誰もが与えられているが、あなた方の進化レベルの世界では、しばしば転生ごとに異なるパートナーを選ぶのが普通であり、多くの場合、霊的成長のために変える必要があったり、前世での行為の結果として変わることがある。つまり、霊的に完全に似ているツインソウルであっても、愛よりも欠点が強く、しかもそれを認識も修正もする気がなければ、一時的に別れてしまうこともある。人は失ってはじめて、大切なものに気づくこともある。そうして次には、あまり似てはいないが、自らの欠点を修正するために役立つ人を相手に選ぶことになる。

   あなた方の世界ではほとんどの人が、内面的なものを気にかけたりしないので、愛によって結びつくカップルは非常に少ない。人々の大多数は、物質的あるいは精神的な必要性や便宜性、それに外見や性的魅力などによって一緒になるので、肝心の魂の要求に従って結びつく者はほんの少数である。

   魂が自らのエゴのほとんどを取り除くことのできた進化した者たちの世界では、もっと自分の心の声に忠実であり、彼らのほとんどの結びつきは愛に基いている。それは類似する魂同士が相手を見間違えたりすることがないからであり、物質的欲望がいかに満たされようと、互いの愛情ほど幸せを感じられるものはないことを知っているからである。そうした世界では、私利私欲によって相手を選ぶ者たちはいないし、当然、双子の魂・ツインソウルでないカップルに出会うこともない。




Q、 私たちの今の世界では、1人の人だけをパートナーにするのがもっともいいことだと考えられていますが、あなたのお話によるとそうでもないように思えるのですが・・・。

   本来、愛というものと結婚とは別物である。
   ある程度の時間が経過しなければ結婚している夫婦にはわからないのだが、あなた方の地上での結婚生活の90%に真の愛は存在していない。だが届出をしているということが理由で、たとえそうでなくてもあなた方は考えを変える気はないように見える。

   自分たちの関係を感情に基いて選ぶようになれば、進化した世界の人々のように、あなた方の関係も永続的なものとなるだろう。ただその世界で互いを結びつけているものは、義務などではなく、愛情なのである。人には誰にも、相手を選ぶ自由と同じく、自分で決意するなら別れる自由もあり、自分の決めるそうしたことについて誰にも言い訳をする必要がない。

   はっきりさせておきたいことは、2人を結びつけるものは相互の愛であるが、常にそれぞれが個人の自由を完全に持っているということだ。それがたとえ司祭や神主の前であれ、宗教的遺物と花で装飾された祭壇の前であれ、サインした契約書などで結び付けられることはない。2人を結びつけるものはそのような契約や儀式の神ではなく、それらはあなた方が作り上げた法律や習慣であり、あなた方自身がそれを継続してそうしているに過ぎない。

   神が本当に与えてくれたものは、愛する能力と、愛を体験して幸せになるための双子の魂・ツインソウルであり、自らの運命を自分で決定できる自由である。しかしあなた方の世界では確かに、愛情で結びつくほんのわずかな夫婦であっても、それぞれのエゴは克服されねばならず、エゴによって感情が押さえつけられてはならない。誰と一緒にいたいか、あるいはいたくないかを選ぶ自由があるのは常に良いことであり、霊界は常に、自由意志の味方である。

   ただ届け出をしたというだけで、何の愛情もない相手と一緒にいることを強制したり、好きであっても何らかの理由で一緒に暮らすことが不可能な人を強要するのは、自由意志の侵害となる。あなた方は、夫婦になるということを、自由意志の一部を放棄することだと依然として思い込んでいるようであるが、そうではない。たとえばあなた方は、結婚したり同棲すると、絶対に果たすべき義務であるかのように、相手と性行為を持たねばならないと思っているがそれは違う。人は嫌であったり望まないのであれば、ただ結婚しているからという理由で性行為を義務づけられたりはしない。

   また単に性行為を理由に相手と一緒になる理由もなければ、どのような状況で一緒になったにせよ、自分にはない気持ちを感じなければならぬ義務もない。そしてこれが一番重要なことであるが、そのために罪悪感を覚える必要はない。感情とは強制されるものではなく、自然に湧き出なければならないものだからだ。つまり霊的な観点からは、すべての上に自由意志があり、他のどんなことであれ、あらゆることに勝って自由意志があるのだ。執着を手放さない限り、愛の至福を味わうことは到底できない。愛における執着とは、鳥にとっての「鳥かご」なのだ。




Q、 愛し合っているからではなく、単なる性行為だけの時間を持つことは、何らかの霊的な法則に背くのでしょうか?

   その人たちが自由に選択したのであれば、問題ではない。
   しかし魂は、成長し進歩していくにつれて性行為の関係以上のものを求めるようになるので、ただの肉体的関係だけで満たされることはなく、虚無感を覚えるようになるものだ。またお互いに性的に惹かれ合ったとしても、魂の類似性がなく内面的な気持ちが満たされないならば、そうした性的関係だけの結びつきは飽きてしまうので長くは続かない。たとえ続いたとしても2人の絆(きずな)はとても弱いものなので、不安定な関係ゆえにもめごとが絶えないだろう。

   魂が成長していくにつれて、性行為という生物的本能の欲求は気持ちを表現するものへと変わっていく。原始人の性もまた基本的に本能的なものであり、好きでない人と性行為をしても、まだ感情がほとんど発達していなかったことから空虚感を覚えることもなかったはずである。しかし愛の能力が高く進化した魂であれば、本能を満足させるためだけの性行為には、大きな虚無感を覚えるはずである。進化した魂にとっての性行為は、親密な愛情表現なのだ。

   進歩した世界では、一緒になろうと魂を突き動かすものは、純粋に内に感じる愛だけであり、それ以外の理由で互いが結びつくことは極めて稀なことである。また彼らには洞察力が非常に発達していることから、あなた方の世界によくあるケースのように、外見に惑わされた結果自分の思っていたような人ではなかったことがわかり、騙されたと思ったり失望することもない。

   あなた方地球に住む人々の性の問題は、そのほとんどが何の愛情も感じない人との性行為を持つということに由来している。あなた方が見るのは肉体的な一部分だけであり、性の喜びのもっとも大きいものは、肉体的に非常に魅力的な人と関係を持つことだと思い込んでいる。ほとんどの人は自らの感情を認識することがなく、ゆえに自分と霊的に似ている人と一緒になることができない。そのために愛情を持てないことから問題が生じるのだ。つまり、内的に満たされたと感じられないことが問題なのだ。愛のない性行為を持つことで一番苦しむのは、そうした内的なものを求めている進化した魂なのだ。

   互いの間に愛情がないことが問題なのだと気づいていても、自分の正直な気持ちに従う代わりに、また同じような愛のない別の相手と性行為をしてみたり、行為にいろいろな要素を加えてみたりするが、虚しさは埋まらない。この虚しさは感情でしか埋められないものなので、それをどれほど物で埋めようとしても不可能なのだ。

   あなた方が誤って、「情熱的」な愛であるとか、「ロマンチック」な愛と呼ぶものは強い肉体的な魅力による関係で、それは花火のように一瞬は強烈だとしても、その後は完全に消え失せてしまう。それでそうしたものを何とか継続させようと、豪華なプレゼントやディナー、スィートルームでの一夜などを準備して努力する。しかしそうしたものも、実際には単に性欲が満たされればなくなってしまうものであり、求めているものはただの性的魅力であるに過ぎない。

   情熱ということに関して言えば、ほとんどの場合それは愛とは何の関係もなく、ただ誰かを所有したいという満たされぬ欲求だけであり、まさに我々が執着と呼ぶエゴが現れたものである。しかし人は物ではないので所有できないし、本人は本人以外の誰にも属さない。愛することと所有したいこと、また愛と執着を混同してはならない。

   ここではっきりさせておこう。
   我々は、誰かを愛するように強制することはできないのだ。もし愛が自由でなければ、それはもはや愛ではないのだ。そして感情も強要することはできない。感情は他人の提言や操作、強要、命令にも従わない。もしあなたが愛されたいのであれば、何の見返りも期待せず、無条件に愛することである。そうすればいつか、「原因・結果」の「因果応報の法則」があなたが与えたものをもたらすだろう。


         book 『魂の法則』 ヴィンセント・ギリェム著  ナチュラルスピリット

                           抜粋


関連記事
スポンサーサイト

Post comment

管理者にだけ表示を許可する

Trackback

trackbackURL:http://lucymay.blog.fc2.com/tb.php/101-3ffa0738