空色ノート
ニコニコ日和改め、そらいろノートです。気まぐれ更新ですが、よろしくお願いします。 転載などご自由に!(ノ゚∀゚)ノドゥゾ

肉体を離れた魂は・・・

zeraniumのブログ より


後悔するのをやめて前向きに生きる

   私たちは誰でも人生のある時期、罪の意識にも似た後悔の念を持つ時、いつも過去にばかり目を向けてしまう。「自分はここで何をしているんだろう?」「これは本当に自分の人生なのか?」「自分があのときあんなことをしていなければ」「別の街に引っ越していれば人生は好転したのか?」「自分は結婚生活を続けていれば、あるいは離婚していれば、幸せになっていたのだろうか?」「お金のためでなく好きな人と結婚すればよかった」

   後悔の念は、何かをやり損ねたという経験から生まれるのだ。
   そして素晴らしいことにそれは、意味あることを実行するチャンスを逃したことに気づくことなのだ。さらにリスクを負うことを怖れる人々を悩ます後悔の念もある。それはおそらく、自分自身を信じるという自尊心が足りないからなのだろう。特に目標に向けた決心や必要な努力、それに伴う責任を負うことを怖れているのかもしれない。

   このほか他人に対する自分の行為や態度を思い出して感じる後悔の念もある。
   「自分の娘が子どもの時、あんなに怒鳴りつけなければよかった」「隣の人が病気になった時、もっと助けてあげればよかった」「父親にもっといたわってやればよかった」 こうした後悔の念は家族関係に関するものだ。ある時、口論をきっかけにその後何年にも及ぶ確執が残り、1歩譲って歩み寄ったり、「悪かった」と誰も言わないために家族関係に亀裂が入ってしまう。

   しかしありがたいことに、私たちは後悔の念を拭い去って、人生を好転させるために行動を起こすことができる。まず最初に、過去に起きた出来事は変えられないのだと理解する必要がある。過去はすでに過ぎ去ったもので取り戻すことはできない。私たちは「今」を生きることしかできないのだ。そして今できることは、自分の置かれている現状を見つめ、自分の持つ価値観と目標を再確認し、自分が望む人生の実現に向けた決意をすることである。

愛に反する教えは真実ではない

   ある集会で、私は50代半ばの1人の女性が目についた。
   彼女は私から見て左側6列目の通路側の席に座っていた。しかもその夜は、霊からのメッセージを受け取った人の多くが彼女と同じ列であったために、私がそちらを見て話すたびに、彼女の後ろに立っている容姿端麗な青年が目に入った。私はこの霊と話さなければならないと感じた。

   私はこの中年女性に訊ねた。「26歳くらいで亡くなったブロンドの青年を知っていますか?」「いいえ。知りません」彼女は答えた。それを聞いて青年の霊は、自分の望みを取り上げてくれたことに対して私に礼を述べ、自分が長年にわたって言いたかったことを伝えるこの機会を逃したくないという気持ちが私に伝わった。彼は私に想念を送り始めた。

   「ジェンまたはジェニーという人を知っていますか? それとボブかロブという名前を言っています。後悔について話しています」 「まあ、なんてこと。そう、あの後悔のことですね。それは私の甥のロバートで、ボビーと呼んでいましたが、彼は私の妹ジェニーの息子です。彼がここにいるんですか? 信じられない。ボビー、ごめんなさい」そういうとその女性は泣き崩れた。

   「クリスまたはクリスティンを知っていますか?」
   「はい、私がクリスティンです」「彼は死ぬ時1人ぼっちではなかったと、あなたに知ってほしいようです。あなたは間に合わなかったのでそのことを気にしていると彼は言っています」「あぁ、よかった。死に際に一緒にいられなくてごめんね、ボビー」

   「ところで、彼の母親を知っていますか?」と私は訊ねた。
   「もちろんです、私の妹ですから。彼は何と言っているのですか?」 すると突然ボビーは非常に強い感情を私に伝えてきた。「ボビーの母親は、このような集会を通して霊とコミュニケーションすることを認めていないそうです。それは彼女の信仰に反するからだと。その通りですか?」 「はい、彼の言うとおりです。妹のジェニーはとても信心深いですから」 

   「彼はメッセージを母親のジェニーに伝えてほしいと言っています。彼は母親を全面的に許しているので、後悔の念に浸っている必要はないと。その後悔でもう充分な気づきを得られたので、その感情は手放す必要があります。彼は彼女を誇りに思っており、彼女は賢いから、そうした恐怖心で人を縛るような信条を持ち続ける必要なない、と言っています」 「妹にそう伝えます」とクリスティンが言った。

   そのときボビーが、私に聖書を開いて見せてくれたことは興味深かった。
   「あなたは聖書を読みますか? 特にレビ記18章22節(女と寝るように男と寝てはならない)を知っていますか?」私は訊ねた。「残念ながら知っています。それはジェニーが、同性愛者のボビーを非難するためにかつて持ち出した1節です。彼女は徹底したキリスト信者だったので、ボビーが間違った人生を送っていると考えていました。彼女は厳格な信条を持っていたので、ボビーが神の意志に反していると感じていたのです」

   クリスティンはさらに続けた。「妹は息子の考え方を変えさせるために、説き伏せようとしたり、悪魔祓いをしたり、それこそ何でもやり、あらゆる手を尽くしたけれど、ボビーはボビーのままだったんです。彼は自分を変えることはできなかったし、彼はあんなにいい子でした。しかも運悪く、彼は高校のバレーボールのコーチと親密な関係にあることが発覚しました。ジェニーの理想的な世界が崩れ落ちたのはその時です。そしてジェニーはこのままであれば息子と縁を切ると言い、ボブは考え方を変えなかったので、その後彼女は彼と関わらなくなりました」

   「それが16年前のことです。それから彼女は感情をぶちまけるようになり、街で同性愛者関連のイベントが開催されるたびに、教会の団体と一緒に抗議の行進をしました。そしてボビーは病気になって亡くなったのです」 私は言った。「ボビーは、彼の死後に母親がそのことを理解し始めたと言っています」 「はい。彼の死後、ジェニーは自分の信仰を見つめ直すことを始めました。聖書を熟読し、いろいろな学者と一緒に研究しました。そして間もなく、自分はそれまで間違ったことを教えられてきたのだと気づいたのです」

   クリスティンは続けた。「ジェニーは研究すればするほど、自分は宗教的な教えに裏切られたという気持ちが強くなっていきました。そして彼女は息子が罪深い人間ではなかったということもわかったんです。そうであったにもかかわらず、教会が息子を批判したので、それに同調して彼女も息子を批判したのです。それ以来、彼女は後悔の念に苦しめられています。そして彼女は、息子へのお詫びとして、また彼のことを忘れないために何かをしようと考えました」 

   「彼女は何をしたのですか?」私は訊ねた。
   「ジェニーはエイズの活動家になり、憎しみではなく愛を説きながら、米国内をあちこち旅して回っています」 ボビーは涙を流していた。そしてもう1つ彼には伝えたいメッセージがあった。「”お母さんに、大好きだと伝えて”と言っています」

   私たちはジェニーのように、さよならを言う前に、あるいは否定的な感情を修復する前に愛する家族を失うと、後悔の念に駆られる。「あの時ああしていれば・・・」というような、答えの出ない疑問を抱えたまま生きていくのは辛いものだ。私のところには実際に、日々の後悔で苦しむ人々からの手紙がこれまでに数千通も寄せられている。彼らは普通の生活を送りたいのに、健全で建設的なやり方で現状に対処しない限りは、ただ心の痛みにふたをしているに過ぎない。

   この世から次の世界に「後悔の念」を持ち越すと、どのような悪影響があるかを知っておくことは誰にとっても非常に大切なことだ。霊の世界はこの現世よりも精神性の高い世界なので、すべての想念や感情は増幅され、次の世界に持ち込まれた感情的堆積物はすべて肥大化してしまう。現世で選択した自分の内面は、霊界では誇張され、ありのままがさらけ出されることになる。つまり霊的世界では自分の想念や感情など何も隠すことができない。

   あなたの性格や人格的特質はすべてが顕わになり、誰の目にも明らかに見えるものとなる。それは精神的、感情的にまる裸になるのと同じだ。この事実からわかることは、残念ながら人は次の世界に行っても、現世で自分が向き合うことを避けたり、逃げてきた問題はそのまま持ち越されることになり、解決されることはない。だから私の最善のアドバイスは、今すぐにでも、自分が逃げている、背を向けている問題に対処し解決することなのだ。

   現世で抱えた後悔の念が次の世界ではより増幅され、それが苦しみをより大きく感じている霊たちの辛さを想像してみてほしい。私がしばしば耳にするのは、”生きている間にこうなると知っていれば、もっと違った行動をとっていただろう”と嘆く霊たちの声である。



Unfinished Business 『人生を、もっと幸せに生きるために』 ジェームズ・ヴァン・プラグ著 エンジンルーム/河出書房新社



-----------------------------------------------------------------------------------------------------------------



お墓を必要としているのは「こちら」にいる人々


Q、お墓参りをしないと、亡くなった人々は気を悪くするのですか?

   彼らはお墓にいるわけではないので、気を悪くすることはありません。
   墓地というものは、亡くなった人のためにあるのではなくて、それは純粋にこちらで生きている私たちのためにあるのです。つまり大切な人とのつながりを持ちたいために、便宜として確保しているだけのことなのです。誰一人いなくなった人などいないのですから、「向こう側」にいる人々には私たちの考えや思いがすべてわかっています。

   それは私たちがどこにいようと問題ではなく、たとえば墓地に向かっている車の中に一緒に座っていたりするのです。ですから「向こう側」にいる彼らと話すために、別にお墓に行く必要はまったくないのです。墓前に花や品物を供えるのは、実は悲しみに包まれているこちら側の人々に慰めを与えるためでしかないのです。つまり、私たちからすればその行為は愛情を表すためのものです。でも向こうではこう言っていますよ、「あなた方、そんな花や品物に無駄にお金を使う必要はないんだよ」と。

Q、「向こう」へ行った親しかった人は、別離を悲しんで、私たちのもとへ戻りたいと思うのでしょうか?

   私は、「別れを悲しんでいる」と言った魂に、お目にかかったことが一度もありません。
   当初は向こうでの状況に満足しているとは限りませんが、彼らの多くは、別離が原因でこちらにいる家族が非常に取り乱して、悲嘆に暮れたりしないことを望んでいます。

   覚えておいて欲しいのですが、私たちという存在は本来が、この物質的次元の存在ではないのです。私たちは究極的には、宇宙というより広大な世界に属しているものなのです。この広大な大宇宙の中の片隅の、この小さな辺境の地に私たちがいるのは、この物質的3次元の世界でなければ得られない学びがあるからで、それをここで経験して知るためなのです。

   「こちら」を去って「向こう」にいるのは、いわば夏休みのようなものです。
   ですから転生するべきふさわしい準備ができていない状態で、こちらに戻りたいという希望を示した魂には会ったことがありません。魂はひとたび「向こう」へ行くと、たった今終えたばかりの自分の旅について理解します。

   「向こう」の人たちは今なお私たちを愛しており、その愛は永遠に続きます。
   しかも「向こう側」は永遠のパラダイスであって、何の制限もない世界ですから、彼らが私たちとともに過ごすために、ことさら制限と拘束の多い肉体的な形に戻る必要はないのです。

Q、「向こう側」の人たちも生前の個性を持ち、歳をとるのですか?

   個性の点では、向こうに行ってもこちらにいた時と変わりません。
   こちらで押しの強い人であったなら、「向こう側」でもやはり押しの強いままで、言うことをきかせようとします。しかし時々あることですが、こちらにいた時、無口で絶対謝ることのなかった人がコンタクトしてきて、「愛情を口で表現したことがなかったけれど、やはり言葉で表現するべきだった」と伝えてきたりします。また「向こう側」へ行ってから変わる人もいますが、向こうで何かを学んだからのようです。

   知っておくべきことは、肉体年齢は霊的な年齢とはまったく関係がないということです。
   こちらでは短命でほんのわずかな期間しか過ごせなかった人もいますが、それでも霊的な年齢においては多くの経験を積んだ古い魂であったのかもしれません。逆に80歳、90歳まで生きても、霊的に成熟した年齢という点では、霊の年齢はまだ幼ないということもあり得ます。

   つまり「向こう側」では、早くに亡くなった赤ちゃんは赤ちゃんではないのです。
   そういう魂は私にこう言うかも知れません、「亡くなった時、私は9ヶ月の赤ちゃんでした」と。しかしこれは、それが間違いなく自分の子どもだということを依頼者に納得させるために
そう言うのです。そして人々は必ず、なぜ神様が子どもを連れて行ってしまうのかを知りたがります。でも私にしてみれば、この疑問は見当違いの疑問なのです。

   私には前から不思議に思っていることがあります。
   それは転生してくることで致命的な病気や遺伝病にかかり、虐待されたり、殺されたりすることが前もってわかっているにもかかわらず、あえてそれを体験するためにこちらへ自発的にやってくる魂がいるということです。しかしそこには私たちにはわからないカルマという隠れた原因と目的があると考えられます。

   そして多くの場合、その短い人生や死によって生まれる波及効果というものがあり、それは非常に遠い範囲にまで及び、私たちの知らない大きな貢献を果たしているのです。そしてそういった人たちの魂が今戻っているところは「向こう側」で、言うまでもなく遥かに快適で美しいところです。

   多くの場合、「向こう側」にいる存在たちには固定した年齢がないように見えます。
   おそらくその理由は、自分の年齢を選択することができるからです。私の見たところでは、私の父はかつての老人のようには見えないし、兄も病人のようには見えません。二人とも「向こう側」では若くて端麗な姿をしているので、どうやら霊は自分に一番ぴったりすると思える年齢や、なりたい年齢を選べるようです。

   しかしながら私にわかっているところでは、依頼者がリーディングを受けに来ると、その依頼者が目的とする「向こう側」の相手は、その本人であることを思い出してもらうために、依頼者に見覚えのある姿、様子で現れるのが普通です。なぜならたとえば祖父や祖母の場合であれば、二十歳代の若者の姿で現れたのでは、孫には見分けがつかないからです。

Q、「亡くなった」人たちは、お葬式で誰も泣いてくれないと憤慨するのですか?

   いいえ、そんなことはありません。
   彼らが腹を立てることはなく、「あいつはすぐ俺のことを忘れるぞ」とか、「あの人の本心を今わかってしまった」などと言って、裁いたりすることはありません。たとえ奥さんの葬式に、夫が愛人の秘書と腕を組んで現れたとしても、こういったことにさえ亡くなった人は理解を示すでしょう。

   なぜなら、自分の結婚生活にかかわっていた、さまざまなカルマのすべてを今は理解しており、人間関係というものが持つ目的が何であるかも、今は知っているからです。ですから葬式に涙は必要なものではなく、むしろ実際にはその反対で、亡くなった人たちは微笑みと笑いを好んでいるのです。

Q、「亡くなった」人々は、私たちの人間関係をうまく取り持ってくれているのですか?

   そういうこともありますが、多くの場合それはないようです。
   なぜなら私たちは自分で過ちを犯し、そのことから学びを得るためにこの世に来ているからです。ある人々は自分の指導霊と連絡を取ることができ、見当違いの判断をしないで済むだけの導きを得ます。

   「向こう」の人々は私たちに「合図」を送ろうとしますが、同時に彼らもわかっているのです。つまり私たちは、自分の行為から教訓という恩恵を受けることができるように、一定の経験をすることが運命づけられていることを、彼らは知っているのです。

   私は以前、とてもハンサムで容姿端麗な男性とデートしたことがあります。
   しかし彼は非常に愚かな人物で、人の話に聞く耳を持たず、精神的にも心を閉ざした人でした。「向こう」の人たちは、この男性は私には向いていないと教えてくれていたのです。しかし私には、そしておそらくこの男性にも、この交際から学ぶべき点がありました。そうです、実は私が学んだことは、「イケメンの中には本物のバカがいる」ということでした。

   私たちは誰に出会うにせよ、そこには何らかの理由があります。
   多くの場合、恋愛関係にはカルマに関わる理由があります。ですからそれを知っている「向こう」の人々は、私たちがそういう体験をするように援助してくれます。


  「超入門 転生のひみつ」 コンチェッタ・バートルディ著 徳間書店5次元文庫
関連記事
スポンサーサイト

Post comment

管理者にだけ表示を許可する

Trackback

trackbackURL:http://lucymay.blog.fc2.com/tb.php/142-d2e62f5d